香港探訪その2 冒険と文化 謎の先端研香港探訪最新事情(後篇その5)二日目の朝を迎えた。曇りである。テレビの天気予報を見ると、雨は降りそうにない。気温も20度程度で快適である。 今日の予定は既に決まっている。昨夜、連れと話し込み、マカオに行こうかと考えたのである(写真はマカオのカジノ)。 マカオの魅力はカジノである。大小という単純な博打があり、おいらは初回の香港旅行で少なからず勝った記憶がある。今回もマカオのゲームで蓄財ができるかも知れないのである。無論、ハイリスク・ハイリターンであるからにして散財となるのも覚悟の上である。 だが、マカオに行くとなると普通は一日仕事である。フェリーで行けば小1時間で着くはずだが、往復の時間の他に移動やカジノの他に観光を入れれば、午後からのスケジュールではきつい。 そう、おいらは香港の某銀行での用事があるのである。それを済まさなければ、身動きが取れない。止むなく今回はマカオでの蓄財(散財とも云う)をあきらめることにする。 さて、かねてより、香港の朝食は朝粥と決めているので、朝粥の店を探すことにする。 既に述べたようにホテルのロケーションはすこぶる良い。ヘネシーロード沿いに位置しており、地下鉄のワンチャイ駅とコーズウエイ・ベイ駅の間にある。コーズウエイ・ベイ駅の傍にはデパートのSOGOもある。 おいらと連れはヘネシーロードから路地に入り、朝粥専門店を探す。ガイドブックに載っている店などは高くてまずいので敬遠する。現地人が食べている店でなければ、ホンモノの味など堪能できるはずがない。そう思って探していたら、良さそうな店を発見した(写真下)。 ここで注文したのが、アワビの朝粥である。香港の粥は魚介類やチキンなどから出汁を取り、コメの形が崩れるほど煮込んだものに好みの具を載せるのである。 土鍋にアツアツの粥が入っている。アワビ粥で歯ごたえがあり、噛めば噛むほど口の中にアワビの旨さが広がるのである。文句なし。 アツアツなのだが、水が出されていない。そう云えば、周りを見回すと水を飲んでいる人はおらず、飲み物は別途注文しているようだ。 だが、おいらは水が飲みたいのだ。ウエイターに水を所望したら時間が経ってからお湯が出てきた。中国では健康のため、どうやら冷たいものは飲まないようだ。 腹一杯になったので、コーズウエイ・ベイ駅まで歩く。地下鉄に乗って銀行のあるセントラル駅で降りる。 久し振りなので、某銀行の場所が直ぐには分からない。前回の記憶では駅を出たら目の前に大きなビルがそびえていたはずだが、高層ビルの様子が違う。出口が違ったのである。 こういうときは地元の人間に聞くのが一番である。台車で荷物を運んでいる若いお兄さんを見つけたので場所を聞くと反対側だという。 やはり、出口を間違えたのだ。指示された方向に行くが、ここも様子が違う。今度は背広を着たビジネスマン風の中年に聞くとまたもや方向が違うという。どないなっとんのや、香港の人間は。 やれやれと数分歩くと、あった、あった、デジャブの景色に遭遇したのである。 この銀行の前には元は三越にあったライオン像が鎮座している。日中戦争で弾丸が当たった穴が残されており、観光名物にもなっている。 風水の技を凝らした銀行に入り(下の長いエレベーターに乗る)、受付で要件を聞かれ、カウンターに通された。 英語でのやり取りを行い、1時間弱で所定の目標を達することができた。メデタシ、メデタシ(この項続く)。 香港探訪最新事情(後篇その6) この銀行の前はスクエア(広場)になっており、確か数年前には学生たちが民主化を叫んで占拠していた場所である(下の写真はスクエア横の立法議会院)。 今は、全く平穏なものでしばし散策した後、九龍に移動する。再び地下鉄に乗車し、チムサチョイ駅で降りる。まずは、九龍半島の先端まで歩き、香港島を一望できる場所を目指す。 途中、こういう光景に出くわす。 ここではホテルは飯店ではなく、酒店だと分かる。 九龍半島の最南端に到着する。これが絶景であった。 その足で、ブルース・リーの銅像が置いてあるガーデン・オブ・スターズまで歩く。途中、郵便局があったので、エアメール用の切手を買う。 ガーデン・オブ・スターズに到着。 目指すは、ブルース・リーの銅像である。本来はチムサチョイ・プロムナード内にあるアヴェニュー・オブ・スターズ内にあるのだが、今は改装中ということでここに移転させられているのだ。 ありました。他にも銅像は多数置いてあるのだが、ブルース・リーのところだけが人だかりである。観光の目玉になっていると分かる。 お昼時になったので、昼食とする。昼食は飲茶(ヤムチャ)と決めていた。飲茶の専門店を探す。 少し手間取ったが、目指す店を発見、地下に降りる。 これが大正解であった。本場のチョ―フン(腸紛)に出会ったからである。写真は、「パリパリ海老チョーフン」(一口齧ったあと)。 実は、おいらはこの「海老チョーフン」を食べたのは初めてであった。まず、食感が凄い。柔らかそうなのに芯はパリパリだ。この感触は経験したことがない。次に、ソースが絶品。やや甘めの味でチョーフンにまとわりつく。抜群の旨さで、旨い、旨い、旨いとしか云いようがない。 ビールは青島(チンタオ)。小瓶で上品。お代わりが進む。特製シューマイ、フカヒレ水ギョーザなどどれもこれも舌鼓を打ちっぱなしである。 なお、注文はテーブルにペラペラの注文票(写真下)が置いてあり、欲しい商品にチェックを入れて頼むのである。日本の回転寿司や居酒屋もどきのアナログな方法である。 メニューを見ると大根餅もあったので、注文。デザートはマンゴー・プリン。これも美味。 店は混雑していたが、平日の午後1時過ぎでやや空いてきたので、机の上で連れと二人で日本宛ての絵葉書を書く。絵葉書は昨日のマダムタッソー蝋人形館で買い求めていた。 おいらが帰国した後に到着する葉書だが、万が一、帰路の飛行機が落ちた場合、葉書だけは日本に到着するという話しである。 午後1時半を過ぎたので、チェックする。料金は二人分でたらふく食って約5千円。やはり、現地人の食べる食堂は安い。さあ、これから香港ワールド満載のキッチュな雑貨ばかりを売っている女人街に向かおう(この項続く)。 香港探訪最新事情(後篇その7) 地下鉄に乗ってモンコック駅で降り、女人街を散策する。 女人街とは、衣料やバッグ、時計、雑貨の店もどきが道の真ん中までせり出して延々と続く街並みのことを云う。とにかく何でも出て来るお宝市だと思えばよい。 女人と名前がつくので女性ものが多いが、男性のものももちろんある。 おいらはこの街が好きである。香港に来ると必ずここに寄るのだが、一度などは、かつてここでTシャツとパンツ(ズボンのこと)に下着まで買い揃えたことがある。早い話しが汚い恰好で日本を出国し、香港で着てきたものを棄てて帰国時は新調したスタイルになっていたのである。 その理由はここには何でも揃っており、ミシンも常備してあるので買ったパンツもその場で裾上げをしてくれるのである。 今回はさすがにそういう真似はしなかったが、そういう楽しみもある場所である。 ひやかしていたら、携行用のLEDライト兼レーザーポインターを売っていた。レーザーポインターは数百メートル先でも届く優れものでこれがわずか800円。買ってしまった。こういう衝動買いの愉しみがある。 また、こちらが日本人と分かると必ず「ニセモノ、トケイ、アルヨ」と声をかけて来る。 精巧なものからチャチイものまであるはずであり、コピー商品は今もなお健在のようだ。ま、無視するしかないのだが。 少々疲れたので茶でも飲みたいと思ったら、スターバックスを見付けた。迷わず入る。 かつて海外で困ったのは日本のように喫茶店がないことであった。しかし、今や世界の果てまでスターバックスがある。便利になったものである。スターバックス成功のカギは日本の喫茶店にあったに違いない。 はずれには八百屋があり、見たことのない果物が陳列してある。 連れが「ドラゴンフルーツ」だと教えてくれる(写真上)。ドリアンもある。 女人街だけでは手落ちなので、男人街も散策する。ここで、日本の古いポスターをゲット。 観てのとおり、「清酒白鶴」のポスターである。店主が清酒のことを「チンシュ」と発音していたのが耳に残る。タダ同然の値段であったが、白鶴の、異国の、しかも戦前のものであり、お宝の可能性あり。 さて、夕暮れ時になって近くの公園を歩いていたら、エログッズ専門の店が往来で堂々と商品を陳列して売っていたので、これまたビックリ。 夕食は本格的な中華料理を食べたいと決めていたので、コーズウエイ・ベイ駅まで戻り、四川料理「南北楼」で麻婆豆腐を食す。これがまた美味。香港に来て三食とも毎回旨いものを喰っていたら地獄に堕ちるのではないかと不安になったほどである。 午後10時過ぎ、ホテル到着。香港二日目は1万五千歩であった。就寝前に荷物をパッキング。パッキング終了後、昨夜同様ナイトキャップを愉しみ12時半就寝(この項続く)。 香港探訪最新事情(後篇その8) 香港三日目、午前7時起床。三日目の朝食は麺類にしたいと思った。 これまで粥、飲茶、本格中国料理を味わっているので、麺類を欠かしては片手落ちである。 ホテルのコンシェルジェに「安くて美味い麺類を食べさせる店が近くにないか」と尋ねたら、すぐそばにあるという。 日本のファミレスのような店であった。メニューを見ると確かに安い。 バーベキュードポーク(チャーシュー)麺にパン、目玉焼き、ソーセージが付いて28香港ドル(420円。写真上)。 しかし、驚いたのである。この麺がインスタント麺だったのである。うへ~、朝からインスタントラーメンとはひどいよ。 これは失敗だったねぇ。しかし、周りを見ると皆、インスタント麺を旨そうに食べている。この国の人間の味覚はどうなっているんじゃ!! さて、本日の予定は昼までなので、やり残したことを行う計画である。 1.麺類を食べる 2.パワースポット(寺院)巡りをする 3.足裏マッサージをする の3点であり、1は終了(失敗だったが)した。したがって、残りの2を目指そうとガイドブックを開くと、キャット・ストリートがディープな場所(骨董街)であり、その傍に運気が上昇するという「文武廟」があるというので再び地下鉄に乗る。 キャット・ストリートに着いたが、午前10時から営業をするらしく、まだ店が開いていない。 キャット・ストリートに並行してハリウッド・ストリートがあり、その先に目指す文武廟があった。 廟の中に入ると巨大な線香が天井から垂れ下がっており、こういう光景は日本にはない。 文武廟は1847年に建立された香港最古の道教寺院である。学問の神様である文昌帝と武道の神様である関羽が祀られているのである。三国志好きのおいらにとって関羽が祀られているのは嬉しいのぅ。 ここでお参りした後、3の足裏マッサージの店を発見する。迷わず入る。香港に来て足裏マッサージをしないと、画竜点睛を欠く。 料金は30分128香港ドル(約2千円)。若いお姉さんがやって来て足の裏とふくらはぎのマッサージをしてくれる。足の裏が痛くなるほどツボを押さえてくれるのでおいらはたまらずヒーヒー、イタイ、キモチイイ~と唸り声をあげるのである。 店の主人が時間を追加しろとうるさいが、午後には空港に行かなければならないので時間がないと断る。 その間もお姉さんは手抜きをせずに足裏をもむ。お姉さんの力は凄い。オイルをふくらはぎに塗り込み、もみ、たたき、熱く濡らしたタオルでふいてくれる。ヒーヒー、イタイ、キモチイイ~、ヒーヒー、イタイ、キモチイイ~(この項続く)。 香港探訪最新事情(後篇その9 終わり) 午前11時半、足裏マッサージ店を出る。 成田へのフライトの時間は午後3時半である。国際線は2時間前に到着の必要があるので、午後1時半までに香港国際空港へ行かなければならない。 その香港国際空港には直通のエアポート・エクスプレス(高速鉄道)で行くつもりでいる。エアポート・エクスプレスの始発駅である香港島駅まで歩く。 香港の街は前回訪問した10年以上前に比べて格段に綺麗になっているが、それでも一歩路地裏に入れば下の写真のような光景に出くわす。 こういうディープな世界が香港の良い点でもあるのだが…。 途中、求人雑誌があったので、手に取って見る。「かつや」の求人があったので、びっくり。 さて、エアポート・エクスプレスの乗車券はオクトパスも使えるのだが、二人乗りの乗車券を購入すると170香港ドルであった。オクトパスの場合、一人100香港ドルで二人分200香港ドルかかるのと比較して30ドル安い。つまり、ペア割引が適用されるのだ。ここではシニア料金もあったように、割引制度が充実しているようだ。 エアポート・エクスプレスに乗車して30分で空港に到着した。時刻は12時半。チェックインまで丁度1時間あるので、空港内のレストランで昼食とする。 旨そうな看板につられてこの海鮮堅焼きそばを食べる。チョー旨いが量が圧倒的に多い。香港人は大食漢なのだろうか。 ビールはハルピン・ビール。初めて見る銘柄である。器に感激する。 これで今回の香港旅行もいよいよオシマイである。帰路は同じエアバスで機内サービスの内容も往路と同じであった。 午後8時43分、成田に到着。予定より約15分早く帰国である。 以上、おいらの格安航空利用による香港探訪記の顛末はこれにて終了。いやはや短期間ではあったが、やはり海外旅行とは予期せぬ面白いことに出くわし、得るものが多かったことに気付かされる。異空間による刺激というものは、自分の脳を超える想像を与えてくれるのである。 老婆心ながら、オバマ大統領が広島に来るのも同じように彼の脳に新しい刺激を与えるはずであり、それが世界平和の一助になることを切に願うものである。 なお、諸兄にはこのブログの香港旅行に長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました(この項終り)。 オーストリーでいいじゃないか 「オーストリア」ではないという。「オーストリー」だそうだ(写真はドナウ河畔「メルク修道院」)。 オーストリアの駐日大使館が、オーストラリアと間違えられるので、オーストリアではなくて、オーストリーにしたいという。ホームページを開くとそう掲載されている。 確かに間違いやすい。実際、オーストリア大使館(元麻布)にはオーストラリア大使館(三田)と間違えて訪問する人が後をたたないらしい。 世界史を学ぶと、オーストリーは第一次世界大戦までは、欧州五大国として英独仏露と並ぶ大国であったのだ。何せ、あのハプスブルグ家である。しかし、その大国も第一次大戦で敗戦、解体され、第二次大戦後、永世中立国として再出発している。 元々は「オウストリ(ヲウストリ)」だったという。昭和20年までは、そう表記されていたのだ。それが何時の間にか英語読みになった。酷い話しではある。ま、日本は実質的なアメリカの属国だから、それでも良いかも知れないが、それなら公用語も英語にすれば良い。 本国で自分達のことをどう呼んでいるかだよね。英語読みのオーストリアに合わせる必然性はない。日本が海外でジャパンと呼ばれるよりも、ニッポンと呼ばれた方が良いに決まっている。 オーストリーにしよう。 住みやすい都市 「世界で最も住みやすい都市」(EIU調査。2005年ごろ)というのがある(写真は直接は関係ありません)。 1位はバンクーバー(カナダ) 2位メルボルン(オーストラリア) 3位ウィーン(オーストリア) 4位はジュネーブ(スイス) 5位パース(オーストラリア) 6位アデレード(オーストラリア) 7位はシドニー(オーストラリア) 8位チューリッヒ(スイス) 9位トロント(カナダ) 10位がカルガリー(カナダ) という。 オーストラリアが4都市、カナダが3都市、スイスが2都市、オーストリアが1都市である。こうして見ると、オーストラリアが多いことに驚く。何故だろう。調査基準や内容が不明のため何とも言えないが、欧米の白人を中心に調査したのではないか。オーストラリアが異国の地というイメージが先行しているような気もする。 しかし、東洋人として、1位にバンクーバーが挙がっているのは、共感が持てる。バンクーバーは北米西海岸で日本にも馴染みが深い。おいらも一度訪問したことがあるが、使用言語は英語だし、気候も日本に近いような気がする。物価さえ安ければ、移住するのも良いかも知れない。 ま、おいらは、その前にポルトガルへのロング・ステイを果たしたいと思っているのだが、現在は諸般の事情により、海外探訪さえ難しい様相である。とかくこの世はままならない。 池袋からバスに乗る 所要があって、池袋からバスに乗った。 都内でバスに乗るのは久し振りである(写真は昔、渋谷で撮った全く関係ないもの。お許しあれ)。 都心に住んでいたときは、通勤途上でバスに乗ることがあったが、今では平日の昼間にバスに乗ることはまずない。 池袋駅西口からバスに乗車したのだが、おいらにとっては海外で乗車したように珍しく感じたのである。 時刻は午後3時半過ぎである。 乗車したバスは、国際興業バス。国際興業で思い出すのは小佐野賢治である。 国際興業の本社ビルには冷房がなかった。もとより昔のバスにも冷房がなかった。運転手が汗水流して働いているときに本社が冷房を効かしてどうするのだと小佐野賢治が云ったエピソードは有名である。その代わり、バスはいつも新車だった。運転手が新車を喜ぶのを小佐野が一番良く知っていたからだ。その小佐野の夕食はいつも盛りソバ一杯だったという。 さて、乗車賃は210円。乗車してすぐに満席となったのだが、驚いたのは老人ばかりだということである。ひえ~、お見事。しかし、これでは、街は衰退する。ま、そうは云っても、おいらも老人と見られているはずだ。 駅前交差点を出発すると、大きな煙突が見える。清掃工場の煙突か。都内にはこのような煙突が意外に多い。 途中、学校があったので、そこで学生が大挙して乗車してきた。人口ピラミッドが少し改善されたと思っていると、再び、高齢者が乗車。パスを見せている。そうか、都民は70歳以上だとバスの乗車賃はタダになるのか。いや、それは都バスだけなのではないだろうか。分からないが、その高齢者は一区間だけ乗車して降車して行った。なるほど、バスパスの効用かも知れない。 乗車して約30分、目的地である終点に到着した。都内でのバス乗車がこんなにも愉しいとは思わなかった。途中、珍しいビル群に圧倒され(金光教のビルもあった)、堪能。 また、乗ろう。バスは愉しいぞ。 マハティール前首相の末路 それにしてもである。旧聞ではあるが、マレーシア政権に22年間も君臨したマハティール前首相(80歳)が後継のアブドラ現首相を批判し、与党(統一マレー国民組織)地方支部の選挙に出馬したが、見事に落選した(9月9日)(写真はクアラルンプール中心部)。 マレーシアを近代化させ、ルック・イーストを提唱し、権勢を誇った前首相の面影は今やどこにも見る影はない。数年前にクアラルンプールを訪問したときから考えると、全く想像出来ないことだ。 後継をアブドラ氏に譲った03年以降、マハティール氏の威光が低下の一途を辿ったのがどうやら原因のようだ。 04年の総選挙で大勝したアブドラ首相は財政改革を進め、マレーシアとシンガポールを結ぶ橋梁建設など前首相の掲げた大型事業を次々に中止したのである。 マハティール首相の言論統制は、シンガポール同様、有名であったが、皮肉なことに自分の作った政権批判の封じ込め作戦によって、メディアはこの前首相による現首相の退陣要求を取り上げないという。 結局、自分の蒔いた種によって身を滅ぼしたのである。因果は応報。 世界一周30万円切符 エコノミー・クラスではあるが、30万円で世界一周が出来る切符があるというのを知った。無論、オープン(フライト選択自由)で、エンドース付(フライトの変更可能)だ。期間も1年間はokayである。 世界各国の航空会社が提携したために、この手の切符が発売出来るようになったらしい。 日本の航空会社だけでは、成田から世界各地に飛べても、例えば到着先のインドでは、日本の航空会社によるエジプトへのフライトはない。その場合は、提携先の航空会社の便を探せば良いのである。 エコノミーの正規料金で同様のフライトをした場合の料金と比較しても大幅に安くなっていると言うから、これは魅力的である。 何よりも世界一周という言葉の響きが良い。自由な時間を作ることが出来れば、直ぐにでも旅立ちたいものだ。 冒険を許さない文化 三島由紀夫は、皆が寝静まった真夜中に小説を書いた。 深夜から書き始めるので眠くなることもあったらしい。そこで彼は書斎に長椅子を置き、眠くなったらそこで横になり、5分でも10分でも休んで再び小説を書いたという。小説を書くのに、転寝(うたたね)をしていては自分として許せなかったというのがその理由らしい。 良いねぇ、この話し。三島はやはり異端だったのである。人が寝静まって一人、誰にも邪魔されないで書く。 それに対して晩年の太宰は、サラリーマンよろしく昼過ぎに書斎に入り、夕方には切り上げて晩酌を楽しんだという。 何が云いたいのか。日本は異端を許さない社会なのである。 大英帝国が凄いと思うのは、冒険を許す文化の国ということだからである。 冒険貸借(辞書で調べてくれ)などはその典型である。ロンドンのロイズというコーヒー店で海上保険が発祥したというのも、どうしたらリスクがコントロールできるかと考えた結果の知恵からである。 それに較べて、日本の文化は均質である。冒険をするような輩は村社会では生きていけないのである。かつてはルソンやシャムに出かけていた日本人であったが、江戸時代に鎖国令が敷かれ、日本は均質化したのである。 幕藩体制の存続のためには、秩序の維持が何よりも大切であったのだ。異端や冒険は悪なのである。だから、均質がキーワードである。均質化によって、江戸時代は300年も続いたのである。冒険したのは、講談に出て来る紀伊国屋文左衛門位のものであろう。 総選挙が始まった。異端や冒険を許さない社会のなれの果てが今の日本である。 一方的にイギリスが良いと云うつもりはないが、彼の国のように冒険するのが文化であるということは評価してしかるべきである。 NO PAIN, NO GAIN.と云う言葉を思い出す。 謎の先端研 先端研なる秘密組織?があるという。 おいらの敬愛するM先輩がそのメンバーである。そのM氏によれば、少し前のことだが、某独立行政法人内に「先端研」なる非営利未公認組織の立上げを行ったということである。 あまりにもこの会が面白いので、その内容を暴露してしまおう。 東大にある「先端研」=先端技術を研究するマトモな組織と名称は同じである。しかし、この組織は、大陸の最北端や最西端、それに半島の先端や岬、はたまた政治的な意味での先端(例えば、中国と北朝鮮との国境、アイルランドと北アイルランドとの国境など)を実際に訪れたり、それらをネタにただ飲むと云う、恐ろしく阿呆な組織のようである。 地理的な「先端」の例で、その先輩が行ったトコロとしては、 ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬 アメリカ大陸の最北端、バロー ロングアイランドの最東端、モントーク グレート・ブリテン島の最西端、その名も Land's End 傘屋のことしか記憶にないシェルブール 津軽海峡冬景色にも登場する竜飛岬 新宿区最東端の飯田橋(橋の名前) などらしい。 琴線に触れる話しである。しかも、流石においらの敬愛する先輩だけのことはある。踏破した「先端」の地が国際的で凄い。おいらなどは、上記のうち、ロカ岬しか行っていない(証明書を貰っておりまする)。 おいらは、密かに先端のほかにも中央点フリークもいるのではないかと思っている(南極点未達のシャクルトンもそうだろう)。しかし、何で、世の中にはこのような阿呆ばかり揃っているのだろうか。これだから人生は面白いのであるが……(M先輩、秘密をばらしちゃってゴメンナサイ)。 謎の探検家 菅野力夫(明治19年~昭和38年。76歳没)という探検家がいた。大正から昭和にかけて一世を風靡した幻の探検家である(大正2年ごろ、インドでの撮影。産経新聞7月7日)。 その菅野力夫が世界各地で撮影した未公開写真など数千枚がこのたび福島県(郡山市)で発見されたという。 写真を発見したのはフリーカメラマン、若林純さん(49歳)。昨年末、菅野力夫が晩年に暮らした本人の故郷である菅野の遠縁を尋ねた際に、納屋の中で、段ボール箱に入ったアルバムやネガが置きざらしになっているのを発見したのである。 菅野力夫は生涯8回に亘って、世界探検旅行を行った。発見された写真には、東南アジアやインド、満州、モンゴル、樺太、シベリア、ハワイ、ペルーなどの写真があるという。 何故、幻の探検家かというと、写真しか残さず、手記や紀行文を残していなかったため、人々の記憶の中にしかのこらなかったためらしい。 実際、彼は帰国した際、探検先の名所や自分の姿を撮影した写真を絵葉書にして販売したり(当時の流行であるカラー彩色にしていたようだ)、講演会で収入を得ていたらしい(大正2年ごろ、ビルマでの撮影)。 そういえば、神田神保町の古書店(絵葉書専門店)で彼の写真を見たような気もする。 いやはや先人には、我々の思いもよらない人たちがまだまだいるものである。 |